- 2014年11月6日 11:23 AM
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今の大学では、就職して社会に出た時に役に立つスキルがほとんど身につきません。具体的に言うと、冨山さんが指摘している通り、経済学部や商学部を出ても(個人的に勉強しない限り)簿記や会計ソフトを扱えるようにはなりません。理工学部を出ても、ワード・エクセル等最低限のパソコンスキルすら身についていない学生はいっぱいいます。英文科を出ている学生で、本を原書で読めたり、英語で日常会話ができたらビックリしてしまうかもしれません…
私自身が大学生の時の実体験で言えば、教職過程の授業でそれを痛烈に感じました。大学1年生の時から平常の授業に加えて、週に3~4コマ追加受講して教員免許を取得したわけですが、まぁ、これが役に立たないこと…(笑) 当時学生の分際でも生意気にそう感じていましたが、今振り返ってみると改めてそのことを強く感じます。エリクソンやペスタロッチの理論や専門教科の概論は教わりましたが、驚くことに授業の進め方や、生徒たちとの接し方についての実務はまったく教えてもらえないのです。(最近教え子たちに聞いても、このあたりの内容はほとんど変わっていないようです) その状態で、大学4年生になって教育実習でいきなり授業をやれと言われるわけです。私は大学3年生の時から塾で講師の仕事を始めていたので、(当たり前ですが)教育実習に行った時はある程度授業をやることに慣れていました。そんなにうまくなかったとは思いますが、最初からそれなりの形にはなっていたと思います。しかし、一緒に実習に行った学生たちはしどろもどろになってしまったり、結構苦労していました。当時でも、そりゃそうだろうと思っていました。まったく教壇に立った経験がないのですから… ちなみに私は、生徒たちに「塾の先生みたい」と言われました。(はい、ピンポンです。鋭い! そうは言いませんでしたが…)
長くなりましたが、言いたかったことは、大学の講義は社会に出てからほとんど役に立っていないということです。医学部等一部の特殊な学部は事情が違うのだと思いますが、大多数の大学・学部はそうだと断言してしまっていいでしょう… しかし、冷静になって考えてみると、そもそも大学がそのための存在ではないことに改めて気付きます。4年制大学は、カリキュラム的にあえて職業訓練校的な要素を排除しているようですし、学問を分かりにくく教えることを生きがいにしていて、自分の書いた教科書を買わせることに心血を注いでいる教授が今でもたくさんいます。そもそも、大学教授の本来の仕事は論文執筆・研究で、学内の評価はそちらを中心にして行われるため、学生の指導はあくまでも「おまけ」になっているわけです。学生が厳しい就活を勝ち抜いたり、就職してから仕事で役立つスキルを身につけることは無理な相談でしょう。そんな状況ですから、学生たちは(保護者も)大学はあくまでも「学歴を手に入れる場所」と割り切ってしまっていて、一部の学生を除いて「勉強する場所ではなくなっている」のです。これは子供たちを責めても仕方ないと思います。日本の大学の制度の問題です。
そんな大学の実態を改めて認識した上で今回の冨山さんの提言を再度見直していただくと、妙に現実味を帯びた魅力的なものに見えてくるような気がするのですが、皆さんはいかがでしょうか?
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- 法律家小僧 2014年11月6日
御指摘には正しい点も多々あるとは思います。
しかしその上で、大学の授業を「役に立たない」云々言われるのは
如何な物でしょうか?大学は学問をするところなのだから、就職に必要な知識を身につけるには自力でやるべきなのは当然です。「学問を分かりにくく教える教授陣」と言われるが、学問とは元より難解な物です。分かりにくいのは当たり前で、教師のせいではない。確かに早慶初めマンモス私大の教員にはおおよそ学問の専門家とは言い難い先生方が多くて偽臭い授業が多々見受けられるのも事実です。(証券会社員上がりの「金融学者」氏や、マスコミ特派員上がりの「国際政治学者」氏等々)。しかしながら旧七帝大や一橋大、神戸大と言ったいわゆる旧帝大レベルの国立大の教員はいずれの分野にしても日本トップクラスの研究者です。(もちろん例外があるのは大前提として。)
そういった日本最高レベルの知識を持つプロの研究者の講義に分かろうと分かるまいとも、何とかして付いて行って好成績を認定されるよう努力する事は長い人生を有意義に過ごす上でかけがえの無い
糧になろうと思います。私自身、旧帝大の法学部を数年前に卒業し法曹界に進みましたが大学時代の授業内容が即実務に反映可能な物であったようには思いません。けれども中世欧州の裁判制度を通じた様々な国家形態を多角的に分析・検討する基礎法学系の講義、またロシア文学における「余計者」を19世紀のロシア貴族社会を描いた、「エフゲニー・オネーギン」などの文学作品を通して学んだ教養科目の文学部系の講義など、高校以前の中等教育や職業専門学校では決して学べない高度な学問に触れた刺激的な日々は私の今の法律家としての生き方の不可欠な基礎を成すものの一つとなっています。
確かに職業と近接した実務的教育を行う場を設け、研究者と実務家とが互いに交流を持つ事は大切とは思います。しかしそう言った環境は、法科大学院や公共政策大学院、会計専門職大学院と言った専門職大学院の拡充と、その卒業生に対する社会的理解と需要の促進によってこそ整備されるべきではないでしょうか?
私自身、専門職大学院の一つである法科大学院を修了致しましたが、実務に特化した高等教育はあくまで大学院を中心に成されるべきであり、学部時代は実務を踏まえた上での高度な教養教育(これは必ずしも非実学教育と言う意味ではなく、法律学や経済学、政治学と言った社会科学系の実学教育も含めて。)に専念するべきとの認識を強く持っております。
あまりにも資格取得に特化した学習に盲目的に勤しんだ同期生の中にはとどの詰まり「法律を通じて、この国やこの社会をどうしたいのか?」と言ったグランドビジョンに乏しく、どこまで言っても「法律家のための法制度の堅持」にばかり発想が偏ってしまいがちな印象を少なからず受けました。若輩者が無礼を申し上げました。ご不快に思われた点等あればお詫び致します。
どうしても私は、今の下村文科大臣のお進めになる「研究・教養軽視」「私学優位」を目指すようにしか見えない教育政策に強い危機感が覚えてられてなりません。
国家百年の計を見据えた、真に国家の中枢を支える人材がこれでは潰されてしまうように思います。
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