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2019年3月のアーカイブ

それぞれの3.11<その8>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月19日 12:54 PM
  • 未分類

とりあえず私がしたことは、様々なセミナーに出かけることでした。40代の再就職、起業、会社経営、税金、人材採用・研修、資格取得、資産運用etc… とても精力的に勉強したと思います。遠いところで2日連続でセミナーがある時は、近くにホテルを取って出かけたりしていました。ここで様々勉強したことが、今の血肉となっている気がします。この時に出会った様々な方や組織に、その後とてもお世話になることになります。行政書士・社労士の方に、「1週間で会社を作りたいんだけど…」という無理難題を持ちかけて何とかしていただきました。その後、就業規則の作成もお手伝いいただきました。税理士の方には、起業後右も左も分からない時に、財務上の的確な指針を示していただきました。「ドリームゲート」という起業支援の組織で様々相談に乗ってもらったのですが、今は自分がアドバイザーとして仕事をさせていただいています。教育関連の起業支援です。コンスタントに仕事が入って来ます。https://profile.dreamgate.gr.jp/consul/pro/gsskgoto

様々考えましたが、結論は1つでした。自分には塾や教育に携わる仕事しかできません。4月に入ってとりあえず会社は立ち上げましたが、その時点ではまだあまり具体化はしていませんでした。物件も決まっていませんでしたし、備品調達の目処も立っていませんでした。塾・会社のコンセプトも、まだはっきりしていなかったと思います。その状況で、結果として5月GW明けから生徒募集・体験授業をスタートすることができたのですから、なかなかの突貫工事だったことが伝わるのではないかと思います。
会社・校舎の場所でも悩みましたが、まだ母親の問題は依然として抱えていたので、とにかく自宅から近いところということを最優先として探しました。結果、運良くとても良い物件(場所も家賃も)が見つかったのが今のところです。その後様々な準備が数週間で完了したのも、充電期間に培った人脈が、直接・間接に活きたことが大きかったです。

私が一番危惧したのは、前職の塾に迷惑をかけてしまうことでした。退職した時の経緯を考えても、それは本意ではありません。そちらの塾に通っている生徒がGSに移って来るというような事態はどうしても避けたかったので、とにかくひっそりと始めたいと考えていました。こちらからアクションを起こさなくても、存在を知られてしまうと、結果として迷惑をかけてしまうことが予測されたので、「私やスタッフの顔と名前をどこにも出さない」という、塾の新規開校としてはあり得ない選択をしました。
GSのパンフレットをご覧になった方はお気付きだと思いますが、誰が塾を運営しているのかという情報はまったく入っていません。開校にあたってチラシも入れませんでした。このホームページを立ち上げたのも、(5月に開校したのに)6月末くらいです。ブログの過去ログの一番古いもの(2012年6月29日)を見ていただくとお分かりいただけるのですが、私は「Mr.G」(笑)と名乗っています。今は修正していますが、初年度は名前も写真もどこにも入れていなかったのです。今考えると、そんな怪しい塾(笑)によく生徒たちが集まってくれたものだと思います。顔出しNG作戦が功を奏して、開校初年度に前職の塾から生徒が移って来るようなことはありませんでした。
今思い出しましたが、この地域一帯に開校のお知らせをポスディングして回りました。(そこにも顔・名前は出していません) 子安町全域と、片倉町・北野町・万町・上野町・台町の一部、合わせて数千部配りました。私と2人のスタッフで、1日2~3時間で1週間くらいかかったでしょうか。そのおかげで、地域の様子(学校がどこにあって住宅街がどんな雰囲気でというような)を掴むことができました。マンションの管理人に怒られて追い出されたのも、今となってはいい思い出です。このポスティングしたリーフレットを見て、入塾してくれた生徒が何人かいました。とても嬉しかったです。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その7>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月18日 3:04 PM
  • 未分類

この「南の島」で6日間過ごした経験も、少なからずその後の人生に影響を与えていると思います。ちょっと大袈裟に言うと、カルチャーショックで人生観が変わりました。とにかく、慌ただしく動き回ることはせず、空港から中心部の街に直行し、のんびりと6日間過ごしました。白砂碧海のビーチやホテルのプールのリクライニングチェアで1日中ごろごろして、美味しいものをたくさん食べて、当てもなくショッピングをしたり…という毎日でした。観光スポットにはあまり行っていません。とにかく、物価が高かった記憶があります。マックのセットが1,000円以上しました。ファミレスみたいなところで、普通に夕食を食べると、1人で3,000円以上はかかります。
(ちょうど春休みだったので)日本人を中心に観光客も多かったのですが、とにかく街の人たちがのんびりしているのです。おばちゃんたちは、みんなムームーを来て街中を歩いていて、みんな同じ体形をしていました(笑)。昼過ぎ午後2時頃には、街の中心部でも、ほとんどのお店が閉まってしまうのです。後で聞いたことによると、シエスタの習慣があり、みんな昼寝しているのだそうです。なので、うっかりランチのタイミングを逃すと大変です。夕方まで食料にありつけなくなったりします。で、夕方またお店を開けて、夕食の時間が終わったらさっさと閉めてしまいます。夜9時には街中がすっかり閑散としていました。スーパーに買い物に行くと、レジのおじさん・おばさんたちは、周りの人とおしゃべりしたり、携帯で話をしながらレジを打ったりしています。レジに列ができているのに、どこかに行ってしまって、なかなか帰って来ないことがあったのですが、お客さんたちはそれが当然のことのように、みんなで談笑しています。私も仕方なくその輪に入ろうと思いましたが、フランス語がまったく分かりませんでした。タクシーに乗っても、運転手は携帯で家族と話をしながら運転しています。(日本だと違法だ!)
とにかく、流れている時間が日本とはまったく違うのです。そして、何と言ってもみんなが明るくて幸せそう! 細かいことに気を病むという文化がないかのようです。現地に住んでいる日本人の方と話をしたのですが、みんなお金はあまり持っていないけど、 生活(人生)の満足度は高いそうです。犯罪もほとんど聞いたことがないと言っていました。
自分の今までの人生を省みて、何かを変える必要があるということに気付かされたのです。

海外旅行から帰って来て、急に不安になりました。母親はとりあえず良い施設に入ることができて、幸せそうに暮らしている。もう自宅に戻ることはないだろう。あまり私が時間を取られる場面もなくなるはずだ。そう考えた時に、急に将来のことをリアルに考えてしまったのです。失業給付もそろそろ終わってしまう。預金の残高もだんだん減って来ている(海外旅行に行ったこともありますが…)。今後も施設の費用で月に20万円近くは出て行く… それよりも何よりも、「自分がどこにも所属していないという恐怖」に押しつぶされそうになりました。この感覚は、失業したことがない方にはご理解いただけないと思います。
それが2012年の3月の終わり頃のことです。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その6>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月17日 9:40 AM
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仕事を辞めてそんな生活を始めてから、半年ほど経った頃だったと思いますが、朗報が飛び込んで来ました。以前より申し込みをしていた老人ホーム(正確に言うと介護老人保健施設)に空きが出たので入所できるという連絡が入ったのです。施設から「どうしますか?」と聞かれた際に、(私はまだ見学すらしていなかったのですが)即答で「お願いします」と返事をした記憶があります。費用のことを確認したのは、その後のことでした。この部分については、私の妹がよく動いてくれたので、とても助かりました。
実際に入所(救急病院から転院)した後、何日か面会に通ううちに、とても良い施設だということが分かりました。母親も、そんなに時間がかからずに慣れて、友だちもできたようで、楽しそうに過ごしていました。職員の皆さんも、本当に良くしてくれました。要介護度が大きく上がるとか下がるとか、特に変化がなければここで一生暮らせると聞いて、肩の力がスーッと抜けて行くのを感じました。救急病院と違って、基本的に完全看護(すべてお任せできてしまうということです)なので、家族が頻繁に顔を出さなくてはならないこともありません。(もちろん、入所後も私は週に何日かは顔を出していました。時間はいくらでもあったからです)

気付いたら、震災からちょうど1年が経過していました。私にとって、とても長い1年間でした。
「これで少し自由に時間を使える…」という状況が生まれた時に、私がまず考えたことは、「海外旅行に行こう!」ということでした。それまで1度も海外に出たことはありませんでしたし、この機会を逃したら一生行けないかも…と感じていました。私にしては行動が早かったです。すぐにパスポートを取って、3月中に出かけました。以前から「南の島」でのんびりしたいという願望があったのですが、ついにその夢を叶えられたのです。(あえて場所を書きませんが、ヒントは原田知世です) 5泊6日の長旅でした。向こうはまだ夏だったので(気温が40℃近くありました)、すっかり日焼けして帰って来ました。成田に降り立った時は、死ぬほど寒く感じました。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その5>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月16日 12:38 PM
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仕事を辞めた後、母親が入院している病院に久しぶりに行きました。もちろんそれまでも何度か顔を出していましたが、仕事の合間に本当に荷物を届けて顔だけ見に行ったという感じで、滞在時間数十分という時が多かったと思います。そんな時でも、慌てて仕事に戻る私を、母親は引き留めることはしませんでした。仕事が忙しいことは理解していたのだと思います。もうその日は、仕事に戻る必要がなくなっていたので、かなり長い時間一緒にいました。いろんな話をして、1人ではうまく歩けなくなっている母親の手を引いて、外に散歩に連れて行きました。歩きながら、母親が私に「今日はありがとう」と言いました。病棟に戻ってからは、すれ違う先生や看護師に、「今日は息子が来てくれたんだよ」と嬉しそうに報告していました。私は、涙をこらえることができませんでした。母親に仕事を辞めたと伝えたのかどうか記憶が定かではないのですが、帰る時に「またゆっくり来てくれるんだよね?」と聞かれました。とにかく時間はいくらでもある体になっていたので、「また来るよ!」と即答したら、とても嬉しそうでした。帰宅してから、「自分はいったい今まで何をしていたのだろう…?」「唯一の家族に対して、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか…?」と改めて自問自答しました。今まで母親を放置しておいた後悔の念と共に、このタイミングで仕事を辞めるという決断をして良かったとも思いました。これからは、一緒にいられる時間をある程度確保できるようになったわけですし、まだ挽回ができるかな…と。

その後も、毎日とは行きませんでしたが、週の半分くらいは病院に顔を出していました。その頃私は、それまでと同じようにスーツを着て家を出ていました。当時は私服をほとんど持っていなかったということもありますが、近所の手前、みっともないという意識があったことと、母親に「仕事はどうした?」と余計な心配をさせないようにするためです。ただ、週に3日・4日、かなり長い時間病院にいるのですから、母親も仕事を辞めたことを気付いていたのかもしれません。私には何も言いませんでしたが…
とにかく、毎日暇で暇で仕方ないのです。特に病院に行かない日は、どうやって時間をつぶしたらいいのか分かりませんでした。それまでの25年間、そんな日はなかったからです。結局、図書館が私の居場所になりました。ひたすら本を読みました。やはり介護や人生論の本が多かった記憶がありますが、その図書館にある推理小説はほとんど制覇してしまったと思います。
今となってみると、あの空白の1年間(実質8ヵ月くらいです)で、「あれもすればよかった」「これもできたかも…」と感じますが、その頃は再び塾の仕事をできるようになるとは思っていませんでしたし、とにかく体も心も疲れていたと思うので、結果としては、あの期間に(何もしないでボーっとする時間をたくさん取ったりして)充電できたことは、自分にとってプラスだったと振り返っています。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その4>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月15日 1:29 PM
  • 未分類

仕事を辞めるとなると、まずは経済的な問題に直面するわけです。当時は住宅ローンも払い終わっていましたし(22歳でローンを組み、15年余りで払い終わりました)、とにかく仕事にのめり込んでいたのでお金をあまり使わず、それなりの蓄えはありました。しかし、収入がまったく入って来なくなるとなると話は別です。お金の不安がまったくなかったかと言うとそんなことはありません。母親がその後施設に入った後も同じような状況でしたが、救急病院でも月に20万円近くかかっていました。そのうち医療費の金額はそんなに多くなかったので、高額医療費のラインにもかかりませんでした。1人暮らしだったので、「最悪、家を売れば何とかなるか…」くらいの覚悟は決めていました。
会社の退職金がまとまって入ったのは大きかったですし、退職後に1年間は雇用保険から失業給付が出ることも判明しました。普通私のような立場で仕事をしていると出ないのですが、様々な条件が合致して運が良かったようです。額も少なくなかったので、とりあえず入院費用(入所費用)はその分で賄えることになりました。1ヵ月に2回はハローワークに出向いて、求職の検索・相談をすることが支給の条件だったのですが、母親の状況が状況なので、当然具体的な話が進むことはありませんでした。最近になって、例の厚労省の統計ミス(不正?)の余波を受けて、不足額支給の対象となることも分かりました。今年の11月以降に差額が支給されるとのことです。今となっては、もらっていいものかどうか悩みますが…

お金のことで言うと、当時口座を持っていた大手メガバンクのM銀行には本当にひどい仕打ちを受けました。今思い出しても、怒りに震える感じがします。簡単に言うと、入院の費用等を母親の口座から調達しようと考えたのですが、一切手をつけることができなかったのです。私が代理でお金を引き出しに行ったら本人が来ないとダメだと言われたので、母親本人を病院から連れ出して連れて行ったら判断能力欠如のためダメだと言われました。その少し前まで、母親が普通に1人で取り引きをしていたにも関わらずです。実は、(お恥ずかしい話ですが)母親が独断で外貨を買っていたりして、当時の円高の進行によりかなり損をしていたのです。引き出しができないほど判断能力に欠けると銀行が言うのであれば、当然それまでの取り引きも無効であるはずなので、その分をすべて返せと主張したのですが、その時は本人の判断で取り引きをしたので、それはできないと… 私は、今でも(外貨の販売は)ほとんど詐欺に近い行為だったと思っています。
その後、再度自分が(資産の管理能力には問題がないという)病院の診断書を持って行ったのですが、裁判所の許可(成年後見)が必要だと却下され、結局その申請が通るまで半年近くかかりました。10万円以上の費用と多大な時間が無駄になりました。「それが銀行のルールだから…」と言われてしまえばそれまでなのですが、私が一番許せないのは、(その直前まで普通に取り引きをしていた)老いた母親を前にして、「ボケているので引き出しはできない」というようなことを平然と言われたことです。母親本人がそのことをどこまで理解したか分かりませんが、介護で苦しんでいる家族に何ていう対応をするのだと… 
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その3>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月14日 8:44 PM
  • 未分類

震災の当日は、母は病院に入院していたので、あまり心配はありませんでした。電話もかけることもできないので、「地震の時、大丈夫だった?」と聞いたのも、数日経ってからだったと思います。もし家に1人で残していたら…と思うと、ちょっとゾッとしました。救急病院を退院したとしても、1人で家に残しておくことはできないと強く思いました。かと言って、老人ホーム等の一生暮らすことができる施設にも、そう簡単には入れません。どこも競争率が高いですし、うちの母親のレベル(要介護2だったかな…?)だと、優先順位が低いため、すぐに順番は回って来ません。すぐに入れるところは、とにかく費用が高いのです。入所に数百万円とか、1ヵ月数十万円とかいう感じで、とても手が出るレベルではありません。途方に暮れていたというのが正直なところです。

震災とその後数ヵ月の(多少制約がある)生活の中で、自分の心は次第に固まって行きました。母親を守るのは自分しかいない。仕事を辞めて、それを最優先に取り組もうと… 震災の前後くらいから、妹や親戚はもちろん、会社(上司)や近所の方にも迷惑をかけてしまうことが増えていたこともあります。このまま、皆さんに迷惑をかけ続けるわけにはいかないというプレッシャーも強かったと思います。母親の様子を見ていて、残りの人生はそんなに長くないだろうということも認識していたので、最後の数年間くらい、今まで寂しい思いをさせてしまった分を埋め合わせようとも考えていました。(実際は、そんな程度では埋め合わせはできなかったわけですが…)

確か夏期講習中だったと思いますが、会社に辞表(取締役だったので退任願)を提出しました。当然、強い引き留めをいただき、「介護を優先しても構わない」とまで言っていただいたのですが、もうこれ以上様々なところに迷惑をかけられないという思いが強かったため、丁重にお断りをし、実質8月いっぱいで職を辞することになりました。数人の上司しか知らなかったので、全職員の前で退任の挨拶をした日は、周囲の職員たちはかなり驚いたようです。会の終了後、多くの職員に囲まれてしまい、理由を説明するのがなかなか大変でした。その頃は校舎付ではなく、授業もほとんど持っていなかったため、生徒・保護者の方に迷惑をあまりかけずに済んだのは幸いでした。(だからこそ決断ができたという面もあります)
大学生の時に時間講師として働いてから、ちょうど25年間お世話になったことになります。最後に多大なご迷惑をおかけする形となってしまいましたが、それまでは(大変ではありましたが)とても充実した時間を過ごさせていただき、様々成長させていただきました。私としては(今となっても)感謝の思いしかありません。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その2>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月12日 3:05 PM
  • 未分類

あれだけの大災害を目の当たりにしたことと(連日テレビで報道される家屋倒壊や津波の映像はかなりショッキングでした)、その後自分の周りで起きた様々な出来事が、その後の自分の生き方に影響を与えていると思います。直接・間接に被災された方はもちろん、そうでない方も、同じようなことを感じている方は多いのではないでしょうか?
私の場合は、具体的には大きく2つのことが挙げられます。1つは、「人生、いつ何が起こるか分からないのだから、1日1日を悔いなく生きよう」と強く感じたこと。もう1つは、「もっと家族を大切にしなくてはいけない」と改めて考えたことです。

それまでの人生を振り返っても、仕事に生活にと、自分なりに全力で取り組んで来たつもりでしたが、結局のところ会社に依存していたに過ぎないということに気付きました。言われるままにそれなりに日々を過ごしていれば(会社が期待する成果をまったく上げられなくても)、毎月決まった日に給料が振り込まれるわけです。特に私の場合は、若いうちから大きな仕事に携わらせていただいたこともあり、立場が上がっても、(会社勤めをしているうちは)雇われ人根性が抜け切れていなかったように思います。「自分の判断で何かをして、その責任のすべてを自分が負う」というような経験をして来ていないわけです。もちろん、ある場面ではそういう意識と言動で職務に臨んでいたのだと思いますが、会社というセーフティネットの下でのことですから、それによって食いっぱくれることなどありませんし、「このままではいけない…」という意識がかなり強くなって来ていました。
ただしそうは言っても、私は当時の仕事や会社が好きでしたし、(前述した部分を改善することを前提として許されるのであれば)おそらく一生ここで骨を埋めることになるのだろうとも考えていました。

ちょうど時期を同じくして、プライベートの方で、そんな状況を大きく変えざるを得ないことが起こっていました。母親が病に倒れたのです。妹が嫁いで父親が早くして亡くなった後は、家には母1人・子1人の状態でした。自分がちょうど仕事が忙しくなった時期と重なり、朝から夜中まで年老いた母親を1人で家に残しておく生活が10年以上続いていました。母親は、しばらく前から体はあちこちがガタが来ていたのですが、その頃には1人で出歩くことができなくなっていました。幸い介護認定がおりたので、(ほとんど費用がかからず)家をすべてバリアフリー仕様に改築したりしましたが、常に1人で暮らしているのですから根本の解決にはなるわけもなく、病状がかなり進行していました。本当に具合が悪くなった時は、一時的に救急病院に運んで(救急車は使えないので、民間救急を頼みました)入院させてもらったりしていましたが、長期的に預かってもらえるわけではないので、病状が落ち着いたら早く連れて帰ってくれと言われていました。家には私以外誰もいないわけで、連れて帰るということは、私が仕事を辞める以外に手はありません… そんな状況で悩んでいた時に、あの震災が起こったのです。
(次回に続く…)

それぞれの3.11<その1>

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月11日 12:02 PM
  • 未分類

東日本大震災から今日で8年が経過します。2万人からの方が亡くなったり、依然として行方不明になっているのですから、大変な災害であったことは間違いありません。私は直接被災したわけではありませんが、この日を迎えるとやはり様々なことを考えます。毎年授業でその話題に触れることがありますが、年々生徒たちが知らない世代になって来ています。今の小6あたりがぎりぎりでしょうか…

あの日あの時、私は当時の上司の部屋でMTをしていました。突然足下が浮き上がった感覚があり、その後大きな横揺れが続きました。データによると、東京は震度5強で2分ちょっと揺れたようですが、その時はもっと長い時間に感じました。ビルが倒れるのではないかと真剣に心配しました。揺れが収まっても、しばらくは体が揺れている感じでした。
私の家や会社では、人的被害や何かが倒壊したりというようなことはありませんでしたが、その後の数週間はかなり大変だった記憶があります。数日間は電車がまともに動きませんでしたし(自宅からタクシーで出勤したことも)、計画停電が何度か実施されて、暗く寒い中で仕事をしていた記憶があります。もちろん、授業も休講や短縮になったことが多かったですし、春休みに予定されていたTDRへの生徒たちの引率旅行も中止となりました。(液状化の影響でしばらく休園となっていたのです)
生徒たちもあの揺れを体感してショックを受けた者が多く、中には寝る時にヘルメットを被って泣きながら寝ているという生徒もいました。
前日に国立大学の合格発表があり、入試の方が一段落ついたタイミングだったのですが、もう少し早い時期だったら、生徒たちにももっと大きな影響が出ていたと思います。

もちろん、直接被災した方々に較べれば、何てことないレベルのことだったと思うのですが、それでもGW頃までは様々な影響があったと思います。
ああいう修羅場の場面になると、人間の本性というか、本質が出るのだということが、痛いほどよく分かりました。普段偉そうなことを言っている者が、文句ばかり言っていてまったく使いものにならなかったり、新卒の若い子が身を粉にして生徒たちに寄り添っていたり…

この震災とその後の様々な体験が、私のその後の人生にも大きな影響を与えたことは間違いありません。
(次回に続く…)

大学受験ガイダンス開催!

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月9日 3:10 PM
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本日、高校部の生徒と中3卒業生を対象に、「大学受験ガイダンス」を開催します。都立高校から東大・一橋大に合格した先輩にゲストとして来てもらうことになっています。高校生活の過ごし方、勉強の仕方、大学受験の情報、塾の選び方等について、じっくり話をしてもらう予定です。現在GSに通っていない卒業生たちもどこからか情報を聞きつけて、「行ってもいいですか?」という連絡が入って来たりしています。教室に入りきれなくなる心配が出て来ました。

GSでは、物理的な制約もあり、高校1年生までしか授業を行うことができません。高2になる段階では、他の塾・予備校に移ってもらう必要があります。三鷹に高3まで指導している系列の塾があるので、毎年何人かはそちらに継続していますが、距離的にちょっと遠いので、通っている高校によっては通塾が難しい状況があります。
また、今年卒業する中3生はGS始まって以来最も生徒が少ない状況だったことと、付属高校に進学する生徒も多いため、現段階では高1のクラスが設置できない状況です。(最低開講人員に足りないということです) GSに通っていなかった生徒で高1で通ってくれる生徒が何人か来てくれれば、まだ可能性はありますが…

そんな状況なので、新高2・新高1の生徒たちにしっかり情報を与えることによって、今後自らの道を進んで行ってほしいという目的でガイダンスを実施することになりました。もちろんこの後、志望大学や塾・予備校選びのところの相談には、個人的に乗って行くことになります。

日比谷高校が2次募集を実施!続々報

  • 投稿者: gs_staff
  • 2019年3月8日 3:41 PM
  • 未分類

日比谷高校の2次募集実施によって、都立高校入試の制度の不備や様々な問題点が明るみに出ています。今一番問題となっているのは、「2次募集を受けたいけど受けられない」「中学校(担任)によって対応に違いがあり不公平である」ということです。
具体的に言うと、2月の入試で都立高校に不合格となって、すでに他の私立高校に入学手続きを終えている生徒で、今回の日比谷の2次募集を受けたかったのに売れられなかった生徒が出ているのです。(他の塾の生徒ですが、何名か確認できています)
東京都の2次募集のルールで言うと、1月や2月の入試ですでに都立高校に合格している生徒や、都立中高一貫校で後期課程に進学が決まっている生徒は出願資格がないことになっています。それはそうだと思いますし、あまり問題にはなりません。
問題は、都立高校に不合格となり、不本意ながら私立高校に入学手続きを済ませた生徒です。都教委は、ここについてはホームページで以下のような方針を表明しています。

「一人でも多くの生徒の都立高校への進学を保障する趣旨から、既に国私立高校に入学手続を終えている方については、以後の募集(※2次募集のこと)への出願を遠慮してください」

この曖昧な文言が、トラブルの元になっているのです。都立高校の既合格者のように、「出願資格はありません」と明記してあるならまだ分かりますが、「遠慮してください」という文言を中学校の先生がどう捉えるかによって、対応に差が出ているのです。「そうか、もう1回チャレンジするんだな。倍率は高いけど頑張れよ」と、まったく問題なく調査書を書いてくれた先生も多い中で、この「遠慮してください」という文言を盾に取って、「きみは受けることができないんだよ」と言われてしまった生徒もいます。それでも、保護者の方が「それはおかしいだろ!」と抗議をして受けられることになった生徒もいるようですが、結局泣く泣く諦めた生徒もいると聞きました。(ちなみに、この部分については高校はノータッチです。日比谷高校でも、出願に来た生徒について、そのあたりのことをまったくチェックせずに受付をしています)
一番問題となったのが、私立高校でいわゆる「公立併願確約」を取って受けた生徒たちです。多摩地区で言うと、錦城高校を例に挙げるのが分かりやすいと思いますが、この併願確約を取って受験すると、まず不合格となることはありません。ただし大きな制約があって、「都立高校に合格した場合はそちらに進学してもいいけど、都立高校に不合格となった場合は、他の私立高校に進学することができず、必ず錦城高校に入学しなくてはならない」というルールがあるのです。これは暗黙のルールではなく、きちんと明示されているものです。私は個人的には、「何そんな上から目線な入試をしてんだよ!」と思っていますし、GSでは基本的に公立併願を取ることは勧めていません。しかし、生徒・保護者にとってもそれによって確実に合格をもらえるというメリットがあるわけですし、学校も(たまたま都立に落ちたような)優秀な生徒が確実に確保できるという側面もあり、WIN-WINの関係なので、生徒・保護者が本当に納得しているのなら「それもありかな…」とも感じています。
しかし今回の件で、この制度が受験生の首を絞めてしまったケースがありました。日比谷の不合格者でそういう生徒がいたかどうかは確認できていないのですが、他の進学指導重点校を受験して不合格となった生徒が、日比谷が2次募集をするならもう一度チャレンジしたいと考えたのですが、この公立併願を取って私立高校を受験していたために、受けることができなかったというケースがあったそうです。私も、この部分についてはとても微妙な感じがしています。そういうルールで受験をした以上、仕方ないのだろうなと思う一方で、でも(2次募集で合格したら)都立高校に進学することは間違いないわけで、認めてもいいのでは…とも考えたりします。

いずれにしても、一番問題なのは、中学校(担任)によって、ルールの解釈や対応に違いがあるということです。この部分の不公平さについて、受験生はとてもやり切れない思いを持ってしまうはずです。
そもそも、都立高校を合格したあと辞退できるのかということも含めて(ここもルールでは明文化されていないため、中学校によって対応がまちまちです)、高校入試の制度設計をきちんとし直す時期に来ているのだと思います。そうしないと、今後も可哀想な思いをする子どもたちが出てしまいます。

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